ひとさじの呼吸

言葉の練習をしています

ほうれんそうのスープ

 伝達されるべきじゃないかな、ってことを自分だけが共有されてないとき、それが仕事なら尚更異議申し立てをするべきなのだろうけど、単純に「俺嫌われてるんかな?」と思ってしまう。そういう弱さがある。

 いや、そう、仕事なのだ。伝えるのも仕事だし、伝えられるのも仕事だ。情報量の勾配をなくしていく共同作業なのだ。だから伝える側に100%非があるわけでもなく、伝えられる側に常にアンテナを張っておく、義務とも言えるものがあるかもしれない。

 報連相は言うまでもなく大事であるし、その身を持って苦渋を噛みしめれば噛みしめるほどにその重要さが分かってくるはずなのだ。それなのに何故か徹底されないし、というか、こんな導入を書いてるけど、自分も正直出来ないのである。

 学習してない、ということも一因にはあるのかもしれないが、それ以上に、私(たち)にとって報連相の進行を阻むものがあるのだとすれば、人間関係の煩わしさに他ならないのではないだろうか。

 

 自分の教育担当の先輩(上司)に、「お前は頭の中で相手の反応をシミュレーションしちゃうからダメなんだよ」と何度か言われたことがある。御尤もである。シミュレーションするたびに相手の"気難しさ"がーーーそれは例えシミュレーション元の情報がちゃんと現実の記憶に即したものであったとしてもーーーひたすらに自分の頭の中で再生産され続けてしまう。

 話は飛ぶが、大学生の頃に、真面目に恋愛の研究をしていたことがある。というか、今でも半ば趣味として続けている。その際の大きなテーマは「こじらせ」だった。その恋愛の研究(会)の中では、「こじらせ」とは「PDCAサイクルが正常に働いていない状態」のことと一旦定義づけされていた。

 どういうことかというと、例えば(ここではシスヘテロ男性とシスヘテロ女性の2人を想定して)、意中の女性に対して、その人が好きだと言っているキャラクターのグッズを「送りつけ」たり、好きなバンドの曲を耳コピして披露してきたり、といったことを繰り返す男性がいたとする。繰り返す、というところが重要で、P(Plan)・D(Do)まではいいのだが、C(Check)が正常に働いていないため、その女性が微妙な反応をとっていたとしても延々と、きっぱりと致命的なほどに嫌がられるところまで行き着いてしまってから現実を見ることになる。

 私はこれを勝手に「たまごっち化」と呼んでいた。この人はこうである、こういうものが好きである、そういうものからのシミュレーションを組み立てるばかりで、現実の人間関係に流動性が生まれていないか、あるいは生まれていたとしてもそれに気づけないまま、乗り遅れてしまう。

 話を戻すと、辛くなってきたが、要するに私も、苦手だなあと思う相手に対して、相手の苦手な反応をひたすら自分の中で再生産し続けているから永遠に苦手なのだなあ。そうして苦手だからどうしよう、と思っているうちに機を逃して、さらに言いづらくなって、言いづらくなったタイミングで「今更なんスけど…」って行くからもっと苦手になるという。

 終わりである。

 だが、仕事なのである。

 

 自分が報連相する場合、発信者になる場合の話を立て続けにしてしまったけれど、冒頭の話に戻ると、そう、嫌われてんのかなあって思うのである。

 半分ぐらいは「考えすぎじゃない?」って思ったとしても、もう半分は「当たってんだろうなあ」と思う。なにせ自分が上記のような感じなので。嫌がらせのつもりはないにせよ、苦手がられているのかもなあとは思ってしまう。

 

 だけどここで思うこと言いたいことは、報連相を大事にしましょう何が合っても仕事なのだから、という当たり前すぎることではなくて、あれもこれも生存戦略なんだよなあという話。

 あれもこれも、というのは、苦手なものを自分の中で再生産し続けてしまうことも、嫌われてんのかなあって思っちゃうことも。

 一回失敗してしまったものに再トライする時に結果を見たくなくなってしまう。だってまた失敗してたら嫌だから。それが悪手なのが分かっていたとしても。

 嫌われてんのかなあって思うのも、それはその方が納得しやすいからだ。

 私は「認知的負荷」という言葉が便利で好きなのだが、要するに人は不安定な世界に対してなるべく自分の中で情報処理しやすいようにカテゴライズしたり決めつけをしたりしてしまう傾向にあるということだ(「認知的負荷」は一応学術用語だけど、自分が使っている用法が果たして合っているのかは定かではない)。大きくは宗教や死生観のようなもの、死んだ後自分がどうなるのか分からない、世界がどうなっているのか分からない、だから枠組みを置く。何かを信じるのにそれが真実かどうかを知る必要はどこにもないので。

 嫌われてんのかもなあ、と思ってると楽なのだ。あれこれ考えなくて済むし、万が一嫌われてなかった場合に「嫌われてなかったんだ!」とちょっと嬉しいサプライズも待っている。石橋を叩いて渡ることができる。石橋を叩くに越したことは、多分あるが、ないということにしておいて。

 憤慨したり苛立ったりするよりも、悲しんだ方が楽だし。エネルギー的に。多分。

 だが仕事なのである。

 

 生存戦略と仕事が相容れない場合には、まあ、仕事を取るべきということになるので仕方ない。

 生存戦略は、それが生存戦略なのだと自覚しているだけ救いがある。上に挙げたような再生産だったり悲観的な妄想(妄想だとも思わないけど)は、基本的には自分でも悪いくせだと思っているけれど、「仕方なかったんだよ、お前はそれで」と思うことで自分を責めずにいられるし、責めずにいられるからこそこうして「仕事だから頑張んないとな」とか思えるのだろう。

 

 それにしても人と関わりたくないというか、人と関わるの苦手すぎるなと思う1年間だった。