ひとさじの呼吸

言葉の練習をしています

守りたかった(らしい)

 4年ほど前、うつ病になりました、と母親に報告した。その際に「本当のうつ病ってあんたみたいなのじゃないし…」と言われた。

 姉の婚約者の挨拶で、近所のレストランに行きましょうという話の流れだったと思う。本当は黙っていたかったんだけど、そのときは酒の出る場・酒の映る広告・酒の話・コンビニの酒棚の前、至る所で極度の緊張状態に陥るという「酒恐怖症」を並存していて、何とかレストラン行きをせめて回避せねばと告げたのだった。

 そのとき私は薬を飲みながらサークルに顔を出して(定期演奏会直前だったのだ)、授業も大方ほっぽり出して家で泣いていた。でも、やれることやりたいことをやる、その姿は病人役割に違反していると思われたらしい。

 

 信田さよ子曰く、DVとは「状況の定義権を握ること」だという。まあ別に母親の言動がドメスティックなバイオレンスかというとそれはちょっと違うけど、要するにそういうことだ。

  母の知り合いにも精神を病んでいる人というのは結構いて、だからこそそういう発言も出て来たのだと思う。実際のところ、私より社会生活に支障をきたしているような精神状態の人はごまんといるし、いたはずで、別に間違ったことは言ってない。

 別に母に「辛かったんだねえ、辛いんだねえ」とか言ってほしかったわけでもないな、それは普通に気持ち悪い。ちょっと想像しただけでむしろ辛くなってきた。結局言わないってのが最善策だったんだろうな。

 別に今今、あの時の辛さみたいなものを世界に向けて誇示したいとも思わないけど、自分の主観的な辛さを否定されることの絶望みたいなもの。甘ちゃんだったんだな、所詮は期待してしまっていたのだという恥辱感みたいなもの。

 

 どんなに売り言葉に買い言葉であっても、相手の心のことまでは否定しない。それは別世界だ。私の心が、せいぜい私のかけた眼鏡で一旦の定義を得るくらいで、他の誰にも決して定義されないように。主観は一つの観点であって、真実ではない。でも主観が客観に優先されるべきこともある。(注:私は他人を分析して泣かすのが悪趣味ながら結構好きなのでそういうことをやってしまうが、それとこれとは違う、と言い張りたい)

 比べるべきではない。自分の苦労が世界の片隅の会ったこともない誰かの苦労よりもちっぽけだと思う必要はない。自分の苦労はそこを歩いている人よりもずっと重いのだという必要もない。そういうものは、元気を出したい時や休みたい時の最後のひと押しの理屈として、自覚した上で使ってやるのが良い。

 いや、「べき」とか言うのは良くないか。私はそうありたいと思っている、ぐらいの。

 部分的に矛盾する部分はあるように思われるけど、その苦労に名前をつけることは、個人的には悪いことではないと思っている。病気に名前がつくことで救われるときというのは、確かにある。病気の名前は克服しようとするのであれば手がかりであるし、友を得る手段にもなる。

 ただ望んだ名前が得られなかった時に、苦労そのものがなくなることにはならない。時々私たちはお互いにそのことを忘れてしまう。私たちは、今名前のある病気にもなれないことがある。だけど、今名前のある病気にしかなれない。医療資源が限られているから優先順位がある。でも列に並んでいる以上は苦労はあるのだ。

 

 比べないこと、胸を張らず堂々とせず棒立ちのままで、理屈もつけずに自分の苦労をそこにあるものとして扱うことは、防御でもあり攻撃でもある。自分の苦労を守れるのは、基本的には自分だけだ。どうせ人から攻撃されがちなのだから、せめて自分で自分の苦労をみんな守ってね〜と願う。

 難しいことだ。自分の目にも他人の目にも映らないものを「ある」と言い続けるのには胆力が必要で、そんな胆力が沸かない。落ちるところまで落ちないと救ってもらえないということも、ある。

 だいたい守るほどのものか?こんなものは。

 でもあの時は守りたかったらしい。今では他人事のように思えるのは、私が我が儘を通してそれなりに自分の苦労を今は守れているからなのだろうか。