風呂場で死ぬならマラーのように
小学生の頃から家族ぐるみで付き合いのあった友人のお父さんが亡くなったと、母から連絡が来た。
夜中、既に友人の母は就寝していて、仕事から帰って来た友人が、風呂場で亡くなっているのを発見したらしい。
風呂場で死ぬということに縁があるのかもしれない、と思った。
父方の祖父も風呂場で死んだ。近親者で初めて葬式を経験したのがその時、小学3年生だったと思う。祖父は祖母と別居していて一人暮らし。近所に住んでいた私と同い年の少年が、その祖父に懐いていて、家を訪問したところで発見したという。しばらく時間も経っていたはずだ。知る人の遺体を発見するというのは、どういう思いになるのだろうと思う。私はまだ人の遺体を発見したことがない。どれだけの人が、人の遺体を発見するということを経験するのだろうか。
もう一人、幼稚園の同級生が風呂場で亡くなっている。年中の頃だったか、夜中に連絡網で回って来て、「つばさくんが亡くなった」と言われた。
死というものを、当然身をもって経験したわけではないけれど、概念として近づいたのはあの時だったのだろうと思う。いつ、「死」という言葉を私は覚えたのだろうか。でもその時初めて知った言葉ではなかったように思う。既に「死」があるのだと私は知っていて、本当にあるんだ、とつばさくんが死んで思った。
つばさくんは一人でお風呂に入っていて、浴槽なのか風呂桶なのか分からないけれど、泳ぐ練習(息を止める練習だったのかも)をしていたらしい。そうしているうちに溺れて亡くなったと聞いた覚えがある。
なぜか私の中には映像としてそれが残っている。勿論私はつばさくんではないので、想像の産物だろうけど、自分の家の風呂ではない場所の記憶。小さな頃に私が頭のなかで反芻していた何か。
周りの人間と比べて、私は近しい人の死というものを比較的経験していない側だと思う。曾祖母、父方・母方の祖父、父方の祖母、幼馴染の祖父母、くらいだろうか。友人と呼べる存在が亡くなったことはまだない。いや、私の知らないところで、会っていないだけで、かつての同級生などが亡くなっていることはもしかしたらあるのかもしれないけれど、「この前まで一緒にいた人」みたいなのが亡くなったというのはない。
風呂場ではないけれど、水辺で死にかけたことがある。
ほんの小さい頃、それこそ幼稚園ぐらいの時に、家族で潮干狩りで行った。遠目に母親・父親だと思って付いて行った大人が全くの別人で、胸ぐらいまで浸かる沖まで行ったところで母に引き上げられたらしい。というわけで明確に溺れたというわけではないのだが、母の中ではそのことが強烈に印象に残っているらしく「あの時あんたは死んだんだ」と4年前くらいに私が鬱病と反抗期を迎えた際に言われた。
生まれ方は選べないけど、死に方はある程度自由が効くんじゃないの?と思っていて、というか、死に方ぐらいは選ばせてほしいよなと思っている。私は度々「どうせなら他殺されたい」と公言していて、というのも死ぬ時ぐらいは他人からクソデカ感情をぶつけられてみたいよね、という理由からだ。恨まれて憎まれて、そうして殺しに来てくれるのであれば、自分の中の罪悪感も死とともに解消されて綺麗に人生を終えることが出来てより良いと思う。殺してもらうために積極的に人の憎しみを誘発するような行動を取る気は毛頭無いけれど、それでも生きていれば誰かを傷つけるし憎しみを買うこともあったはずだと思う。そして出来れば不意打ちでお願いしたいと思う。ジリジリと追い詰められて死ぬのは御免というか、多分長く続く緊張感に耐えられなくて先に自死を選んだ方がマシ!となる可能性がある。
もしくはやっぱり、寝ている間に死ぬというのが一番良い。眠りからシームレスに行きたい。
今世界情勢がこのようになっている中で、死のことを話すのはあれなのかもなとここまで書いて思った。
ただ、これもどこかでまとめたいなとは思っているのだけれど、今話題になっている当該の戦争を軽視するという意味では全くなく、おそらくどこかで銃声が鳴らなかった日というのは無いのだろう。私たちはきっといつでも、そのことを知っていた。何もしなかった。いつでも、そのように言うことが出来てしまう。戦争がそこになくとも、悲劇というのは大小問わずいくらでも存在するということもまた、私たちは知っていて、その上で、各々日常を送り、笑ったり泣いたりしているのだ。私たちの日常は無意識のうちの欺瞞の上に必ず成り立っている。そうでないと私たちは脳みそが足りないので、それが時々顕在化しては、いつか風化してということを繰り返す。世界はまだ全きの平和ではなく、そして素朴に考えればきっと全きの平和が訪れる可能性の方が低い。私たちは、自分が平穏の中にいる限り、欺瞞と付き添ってやっていく。平穏は常に欺瞞と共にあり、それに耐えられなくなれば渦中に「支援者」の形で飛び込んでその使命を手繰り寄せる、あるいはそれも欺瞞なのかもしれない。もしくは自分自身が「世界的・圧倒的悲劇のもの」になることだ。
当社比、馬車馬のように
3日坊主するつもりはなかったのだが、結果3日坊主になってしまった。
というのも、ちょうど12月の末に突然急ぎの仕事が降りかかってきて、なかなか悲惨な状態だった。いや、この業界もっと悲惨な状態は山ほどあって、というよりも、悲惨と呼ぶべき状況は常態化していて、悲惨とすら思われていない。通常運転。よくそんなんで皆働いているなと思ってしまう。
いつも、まあまあ、当社比で馬車馬のように働いたあとは絶対に揺り戻しが来る。
私は「元気の前借り」と呼んでいる。
絶対に揺り戻しが来る、というのも一種の信念でしかないのかもしれない。頑張ったあとは自分を多少なりとも甘やかして良いのだと思い込むための言い訳の可能性が高い。
此度の借金返済はというと、なんとなくいつも経験しているものとは違って、苛立ちと呼ぶのがふさわしそうなものが怒涛のように押し寄せて来た。その苛立ちによって眠れなくなるし、眠れなくてまた苛立ち、なかなか回復してくれなかった。
しかも自分に苛立つのではなく他人に苛立つからタチが悪い。あの時あんなことがあった、こういうところが嫌だった、と粘着質に思い返す。そこから学び取ろうという意志はもちろんあって、今回の経験だってものすごく勉強になった。
というか、書いていて思ったけれど、多分最初から苛立ってたんだな。今回の件は他人がやっていたものを引き継ぐ形で、「なんで私が」の気持ちが最初からどこかにあった。「なんで私が」の気持ちもあったけど、たまたま条件が一致しただけだったけど自分が適任としてそこに入れてもらったことに喜びはあったし、貴重な経験もさせてもらった。
それなりにがむしゃらにやりながら、でもどこかで疲れが噴出して「なんで私が」が出て来る。前任者が営業電話ででかい声で笑ってる時とか。
ガキだなあ。
それでも業務は続くから、これからも、苛立ちの的だったその人々と一緒に仕事をしていくし(今までよりももっと密接にやっていかなければいけないことも確定しているし)、別に具体的に苛立ったからといって何かが変わるわけではない。そもそも私は、全員のことが多分嫌いだし、そう思うことで自分のことを守ろうとする自分のことがもっともっと強烈に嫌いだ。嫌いだと口に出して予防線張っているこのような自分も嫌いだ。
今日こうやって書こうと思ったのは、苛立ちがようやく悲しみに移行しつつあるからだ。苛立ちは手に負えないし、手に負えないから苛立ちなのだと思う。そうやって発散して、私でもかかえこめる大きさになった時に、ふっとおりてきてくれるのが悲しみなのだろう。
夜、苛立ちの中で眠れなくて、一昨日くらいにふと、あっこれ具体的に苛立ってるわけじゃねえんだな、と思った。矢が先にあって、そこに合う形で的を勝手に探して来ているだけだ。
守りたかった(らしい)
4年ほど前、うつ病になりました、と母親に報告した。その際に「本当のうつ病ってあんたみたいなのじゃないし…」と言われた。
姉の婚約者の挨拶で、近所のレストランに行きましょうという話の流れだったと思う。本当は黙っていたかったんだけど、そのときは酒の出る場・酒の映る広告・酒の話・コンビニの酒棚の前、至る所で極度の緊張状態に陥るという「酒恐怖症」を並存していて、何とかレストラン行きをせめて回避せねばと告げたのだった。
そのとき私は薬を飲みながらサークルに顔を出して(定期演奏会直前だったのだ)、授業も大方ほっぽり出して家で泣いていた。でも、やれることやりたいことをやる、その姿は病人役割に違反していると思われたらしい。
信田さよ子曰く、DVとは「状況の定義権を握ること」だという。まあ別に母親の言動がドメスティックなバイオレンスかというとそれはちょっと違うけど、要するにそういうことだ。
母の知り合いにも精神を病んでいる人というのは結構いて、だからこそそういう発言も出て来たのだと思う。実際のところ、私より社会生活に支障をきたしているような精神状態の人はごまんといるし、いたはずで、別に間違ったことは言ってない。
別に母に「辛かったんだねえ、辛いんだねえ」とか言ってほしかったわけでもないな、それは普通に気持ち悪い。ちょっと想像しただけでむしろ辛くなってきた。結局言わないってのが最善策だったんだろうな。
別に今今、あの時の辛さみたいなものを世界に向けて誇示したいとも思わないけど、自分の主観的な辛さを否定されることの絶望みたいなもの。甘ちゃんだったんだな、所詮は期待してしまっていたのだという恥辱感みたいなもの。
どんなに売り言葉に買い言葉であっても、相手の心のことまでは否定しない。それは別世界だ。私の心が、せいぜい私のかけた眼鏡で一旦の定義を得るくらいで、他の誰にも決して定義されないように。主観は一つの観点であって、真実ではない。でも主観が客観に優先されるべきこともある。(注:私は他人を分析して泣かすのが悪趣味ながら結構好きなのでそういうことをやってしまうが、それとこれとは違う、と言い張りたい)
比べるべきではない。自分の苦労が世界の片隅の会ったこともない誰かの苦労よりもちっぽけだと思う必要はない。自分の苦労はそこを歩いている人よりもずっと重いのだという必要もない。そういうものは、元気を出したい時や休みたい時の最後のひと押しの理屈として、自覚した上で使ってやるのが良い。
いや、「べき」とか言うのは良くないか。私はそうありたいと思っている、ぐらいの。
部分的に矛盾する部分はあるように思われるけど、その苦労に名前をつけることは、個人的には悪いことではないと思っている。病気に名前がつくことで救われるときというのは、確かにある。病気の名前は克服しようとするのであれば手がかりであるし、友を得る手段にもなる。
ただ望んだ名前が得られなかった時に、苦労そのものがなくなることにはならない。時々私たちはお互いにそのことを忘れてしまう。私たちは、今名前のある病気にもなれないことがある。だけど、今名前のある病気にしかなれない。医療資源が限られているから優先順位がある。でも列に並んでいる以上は苦労はあるのだ。
比べないこと、胸を張らず堂々とせず棒立ちのままで、理屈もつけずに自分の苦労をそこにあるものとして扱うことは、防御でもあり攻撃でもある。自分の苦労を守れるのは、基本的には自分だけだ。どうせ人から攻撃されがちなのだから、せめて自分で自分の苦労をみんな守ってね〜と願う。
難しいことだ。自分の目にも他人の目にも映らないものを「ある」と言い続けるのには胆力が必要で、そんな胆力が沸かない。落ちるところまで落ちないと救ってもらえないということも、ある。
だいたい守るほどのものか?こんなものは。
でもあの時は守りたかったらしい。今では他人事のように思えるのは、私が我が儘を通してそれなりに自分の苦労を今は守れているからなのだろうか。
今日は全国的にかつおぶしでしょう
久しぶりに自炊をした。
2年間友人たちと3人でシェアハウスをしていたので、先週ぐらいに引っ越して久方ぶりの1人暮らし。このまえまではリビングに2口コンロがあったけど、新居にはそもそも備え付けのコンロがなかった。
ブラックフライデーの間にアマゾンで頼んだコンセント式のIHコンロがなかなか届かないので何だろうなあ、と思ってメールボックスを開いたら、玄関先にお届けしましたと通知が来ていた。旧居の。住所を変更し忘れていた。
ありますように、と祈って旧居まで、徒歩で40分くらい。あった。堂々と品名の描かれた箱に直接送り状とかが貼り付けてあった。見る人によっては置き引きにも見えそうだったけど、無事確保。
しかし、いざ使ってみようとしたところ、うちには無駄に小ぶりの鍋が1つとフライパンは2つもあるのに、IH対応のものが1つもなく、やむなく実家から持ち出したカセットコンロを使う羽目に。
酢豚を作った。玉ねぎさえ入れて炒めれば終了で、何となくちゃんと料理した気分になれる。素晴らしい発明だと思う。
ただ、すごく玄関が、酢豚くさいっていうか、かつおぶしっぽい匂いがする。
もう本当に長らく自分で作った食事というものを経験していなかった。時間を金で買っていたというのが正しいかもしれない。今年の前半はとりわけアホみたいに忙しかったので、少しでも自分の機嫌を取らなければねとコンビニで出来合いのものを買うばかりだった。それに加えてそれなりに無理な生活をしていたので、そもそも食欲が減退していた。
ヤバかった頃に、久々に人間らしい食事でも取るか、と入って後悔した定食屋に、久々に行った。無事完食できたので、健康に戻りつつあることを確認する。
一人暮らし始めて以来割合ずっとそうだけど、自分の作ったものが美味しく感じられない。料理が下手なのか?それも分からないんだけど、とにかく「味を感じる」「食を楽しむ」みたいなセンサーが、自分で作っている品物に対してはプツっと切れているような感じ。
自分にエサを食わせてる、みたいな。
自分が食うもんだから、見た目も何でもいいし、それっぽく栄養が摂れて、活動ができれば良い。実際健康的な食生活であるかどうかは二の次で、摂れているという錯覚が大事だと思う。野菜ジュースを飲んでいれば健康的な気分になれる。鍋・鍋・雑炊・鍋・鍋・雑炊をしていれば、ちゃんと食っていると胸を張りたくなってしまう。
引っ越しして、家賃が上がっても、別にそれと比例して給料も上がってくれるわけじゃないから、少しでも節約していこうかなとスーパーに行く。だけどなんかもう食指が動かないんだよな。腐らせそう無駄にしそう、そうなった時に処理がめんどくさい…みたいなことばかりを考える。料理しろって話なんだけども…。
大量の冷凍焼きおにぎりと、冷凍の唐揚げを買った。今週はそれらと、酢豚と、あと「皆様のお墨付き」のスープを組み合わせて活動していくことになる。3品か4品もあれば、もう天晴れですよ。
美味しく消費できなくてごめんな、と思う。美味しそうだなと思って買ってはいるんだよ。腹を満たして、その代わりに虚しさを得るのはバカげているよなあと思いはするんだけれども、なんかもう習慣づいたものはどうしようもなさそうだなとも思う。どうしようもないのであれば、もうなるべく安く、エサっぽいものを食べて、代わりに何か別のところにお金を使って虚しさを埋めるのが得策なのかもしれない。
失われたセンチュリア
今日無心にタップ貼りをしていて、唐突に大昔のことでムカついてきてしまった。
なんだか最近は昔の夢というか、人生のオムニバス?的な夢をよく見る気がする。幼馴染に始まり、中高大の友人に、現在の職場の人が総出演してくる。そろそろ人生終わるのかもしれない。
通っていたのは中高一貫校で、高校に進学するっていってもエスカレーターだったので、(高1、ではなく4年生、という言い方をするし)、中学最後の1年間に特筆するほどの特別感はなかった。でも一応部活は中学と高校と、練習が分かれている。高校に入る時には他の中学からの高校転入組も一定数入ってくる。そのため、中学生時代を共に過ごしたコミュニティとしては一旦そこで一区切りになる。
どこの吹奏楽部でも似たようなことがあると思うけれど、卒業学年にはその学年だけでの演奏の機会みたいなものがある。年度末の定期演奏会で、記念に卒業生だけのステージがある。
うちの部活の場合は定期演奏会が中高合同で、本命は高校の方だった(コンクールの実績もその頃はまだ高校の方が良かった)。中学生のステージは半ば高校生の前座に近い。高校3年生の学年演奏の前には、部長からの長い挨拶が読まれる。全然保護者じゃないおっさんとかも涙ぐむようなアレである。
中学三年生のみの演奏の方は、通例として、特段の挨拶などもなかった気がする。
私が卒業する年は、ジェームズ・スウェアリンジェンの「センチュリア」という曲を演奏することになっていた。基本的に部活で演奏する曲の多くは顧問からのトップダウンで決まっていたが、この曲は自分たちで候補を出し合って選んだ曲だったと記憶している。
(スウェアリンジェンといえば、吹奏楽部出身ならばエモくならん奴はおらん、と言っても過言ではな…いや、やや過言かもしれないけど。ピアノでいうブルグミュラーみたいなもんである。だいたい皆通る道。)
とてもいい曲なので良かったら聞いてみてください。
学年演奏ということで特別な気合いも入り、他の全体合奏の曲と違って顧問の合奏も少ないので自分たちだけで知恵を出し合い(出し合ったっけ?)、いざ本番。
の、あれは確か3日前くらいだったか。トロンボーンの子が椅子に座りそこねたとかで下半身のどこかの骨を折って、演奏会に出られないとなった。
そこから本番までの間にどういう話が裏で進行していたのかは分からないけど、結局そのまま本番当日を迎えた。学年にトロンボーンはそいつが唯一だったし、聞いてもらえば分かる通りトロンボーンめちゃくちゃ重要なのである。知らんうちに誰かが(多分顧問のうちの1人)が当時高1の先輩に代打を頼んでいたらしく、ああ演奏できるのね良かった、と胸を撫でおろしたような記憶もある。
なのだが、何故かリハーサルの裏で学年の間で多数決が取られた。そこに至るまでの流れもよく分からないが、多数決を取った。
一人欠けた状態で、学年演奏であるセンチュリアを演奏するかしないか。
私は「プログラムにも載ってるし、センチュリアを楽しみに聞きに来てくれるお客さんだって居るかもしれないからやるべきだ」と主張した。私だけだった。
しかし、結果的にはセンチュリアは演奏されなかった。司会でなんと弁明したのか、「都合により演奏致しません」とかなんとか言ったんだっけ?
演奏会が終わった後で、同じ部活に所属していた姉に「やればよかったのになんでやらなかったの?」と聞かれた。だよねー!!と思ったし、今でもだよなーーーー!!!と思う。
なんかそういうの、分かるんだけど未だに腑に落ちない。部活だしね、仕事じゃないから。分かるんだけども。
そういう友情powerみたいなものを発揮すべき時にそれに乗れていることがないんだよな。
多分個人の性格的な問題に加えて、後付け説明だけど自分も途中入部(中1の夏休みまで剣道部だった)だったので、そういう輪の中に入り込めなさみたいなものはあり続けたんだろうなと思う。小学生の延長線上の年齢が作り上げるコミュニティにはそういう排他性みたいなものがあり続ける。私とて、もう小学生の延長線上というには些か年を取りすぎているけれども、そういう排除をどこかでやって来てるんだろうな。ごめんね。
なんか一度部活のことを書き出したら色々嫌な記憶が噴出して来てしまった。自由解散の際に一人で帰ったこととか、いつも一緒の電車に乗っていてそれなりに仲が良いと私の中では思っていたやつが相手は実はそう思っていなかったとか。
言葉にすると笑えてくるのが、むしろ助からない。
中高の頃の友人と全く会わなくなった。2人だけ、大学に入ってからも年に2回くらい会う子がいたけれど、何があったわけでもなくて只々「ああもう合わないのかもしれない」と思ってしまって、それっきりになっている。皆は多分もっと互いに頻繁に会って、頻繁に毛繕いをし合っている。いつだって私が勝手に離れて行くだけなのに勝手に寂しがっており、笑えてくる。
人付き合いが苦手だ、と思う。
なんかこういう結びにするつもりは全くなくて、只々俺はセンチュリアを演奏したかったんだよ、センチュリアいい曲なんですよ、という話をしたかっただけのはずなんだけどな。
別に腑に落ちなかろうがなんだろうが、友情powerの空気を読むことはできるので、それに乗っかっとけば良かったのかもな。でも結局、カッコつけとかじゃなくて、当時からそういうものを虚ろに感じていた部分はあったから無理だっただろうな。
人付き合いが苦手だ、と、思います。
ほうれんそうのスープ
伝達されるべきじゃないかな、ってことを自分だけが共有されてないとき、それが仕事なら尚更異議申し立てをするべきなのだろうけど、単純に「俺嫌われてるんかな?」と思ってしまう。そういう弱さがある。
いや、そう、仕事なのだ。伝えるのも仕事だし、伝えられるのも仕事だ。情報量の勾配をなくしていく共同作業なのだ。だから伝える側に100%非があるわけでもなく、伝えられる側に常にアンテナを張っておく、義務とも言えるものがあるかもしれない。
報連相は言うまでもなく大事であるし、その身を持って苦渋を噛みしめれば噛みしめるほどにその重要さが分かってくるはずなのだ。それなのに何故か徹底されないし、というか、こんな導入を書いてるけど、自分も正直出来ないのである。
学習してない、ということも一因にはあるのかもしれないが、それ以上に、私(たち)にとって報連相の進行を阻むものがあるのだとすれば、人間関係の煩わしさに他ならないのではないだろうか。
自分の教育担当の先輩(上司)に、「お前は頭の中で相手の反応をシミュレーションしちゃうからダメなんだよ」と何度か言われたことがある。御尤もである。シミュレーションするたびに相手の"気難しさ"がーーーそれは例えシミュレーション元の情報がちゃんと現実の記憶に即したものであったとしてもーーーひたすらに自分の頭の中で再生産され続けてしまう。
話は飛ぶが、大学生の頃に、真面目に恋愛の研究をしていたことがある。というか、今でも半ば趣味として続けている。その際の大きなテーマは「こじらせ」だった。その恋愛の研究(会)の中では、「こじらせ」とは「PDCAサイクルが正常に働いていない状態」のことと一旦定義づけされていた。
どういうことかというと、例えば(ここではシスヘテロ男性とシスヘテロ女性の2人を想定して)、意中の女性に対して、その人が好きだと言っているキャラクターのグッズを「送りつけ」たり、好きなバンドの曲を耳コピして披露してきたり、といったことを繰り返す男性がいたとする。繰り返す、というところが重要で、P(Plan)・D(Do)まではいいのだが、C(Check)が正常に働いていないため、その女性が微妙な反応をとっていたとしても延々と、きっぱりと致命的なほどに嫌がられるところまで行き着いてしまってから現実を見ることになる。
私はこれを勝手に「たまごっち化」と呼んでいた。この人はこうである、こういうものが好きである、そういうものからのシミュレーションを組み立てるばかりで、現実の人間関係に流動性が生まれていないか、あるいは生まれていたとしてもそれに気づけないまま、乗り遅れてしまう。
話を戻すと、辛くなってきたが、要するに私も、苦手だなあと思う相手に対して、相手の苦手な反応をひたすら自分の中で再生産し続けているから永遠に苦手なのだなあ。そうして苦手だからどうしよう、と思っているうちに機を逃して、さらに言いづらくなって、言いづらくなったタイミングで「今更なんスけど…」って行くからもっと苦手になるという。
終わりである。
だが、仕事なのである。
自分が報連相する場合、発信者になる場合の話を立て続けにしてしまったけれど、冒頭の話に戻ると、そう、嫌われてんのかなあって思うのである。
半分ぐらいは「考えすぎじゃない?」って思ったとしても、もう半分は「当たってんだろうなあ」と思う。なにせ自分が上記のような感じなので。嫌がらせのつもりはないにせよ、苦手がられているのかもなあとは思ってしまう。
だけどここで思うこと言いたいことは、報連相を大事にしましょう何が合っても仕事なのだから、という当たり前すぎることではなくて、あれもこれも生存戦略なんだよなあという話。
あれもこれも、というのは、苦手なものを自分の中で再生産し続けてしまうことも、嫌われてんのかなあって思っちゃうことも。
一回失敗してしまったものに再トライする時に結果を見たくなくなってしまう。だってまた失敗してたら嫌だから。それが悪手なのが分かっていたとしても。
嫌われてんのかなあって思うのも、それはその方が納得しやすいからだ。
私は「認知的負荷」という言葉が便利で好きなのだが、要するに人は不安定な世界に対してなるべく自分の中で情報処理しやすいようにカテゴライズしたり決めつけをしたりしてしまう傾向にあるということだ(「認知的負荷」は一応学術用語だけど、自分が使っている用法が果たして合っているのかは定かではない)。大きくは宗教や死生観のようなもの、死んだ後自分がどうなるのか分からない、世界がどうなっているのか分からない、だから枠組みを置く。何かを信じるのにそれが真実かどうかを知る必要はどこにもないので。
嫌われてんのかもなあ、と思ってると楽なのだ。あれこれ考えなくて済むし、万が一嫌われてなかった場合に「嫌われてなかったんだ!」とちょっと嬉しいサプライズも待っている。石橋を叩いて渡ることができる。石橋を叩くに越したことは、多分あるが、ないということにしておいて。
憤慨したり苛立ったりするよりも、悲しんだ方が楽だし。エネルギー的に。多分。
だが仕事なのである。
生存戦略と仕事が相容れない場合には、まあ、仕事を取るべきということになるので仕方ない。
生存戦略は、それが生存戦略なのだと自覚しているだけ救いがある。上に挙げたような再生産だったり悲観的な妄想(妄想だとも思わないけど)は、基本的には自分でも悪いくせだと思っているけれど、「仕方なかったんだよ、お前はそれで」と思うことで自分を責めずにいられるし、責めずにいられるからこそこうして「仕事だから頑張んないとな」とか思えるのだろう。
それにしても人と関わりたくないというか、人と関わるの苦手すぎるなと思う1年間だった。