ひとさじの呼吸

言葉の練習をしています

風呂場で死ぬならマラーのように

 小学生の頃から家族ぐるみで付き合いのあった友人のお父さんが亡くなったと、母から連絡が来た。

 夜中、既に友人の母は就寝していて、仕事から帰って来た友人が、風呂場で亡くなっているのを発見したらしい。

 

 風呂場で死ぬということに縁があるのかもしれない、と思った。

 父方の祖父も風呂場で死んだ。近親者で初めて葬式を経験したのがその時、小学3年生だったと思う。祖父は祖母と別居していて一人暮らし。近所に住んでいた私と同い年の少年が、その祖父に懐いていて、家を訪問したところで発見したという。しばらく時間も経っていたはずだ。知る人の遺体を発見するというのは、どういう思いになるのだろうと思う。私はまだ人の遺体を発見したことがない。どれだけの人が、人の遺体を発見するということを経験するのだろうか。

 

 もう一人、幼稚園の同級生が風呂場で亡くなっている。年中の頃だったか、夜中に連絡網で回って来て、「つばさくんが亡くなった」と言われた。

 死というものを、当然身をもって経験したわけではないけれど、概念として近づいたのはあの時だったのだろうと思う。いつ、「死」という言葉を私は覚えたのだろうか。でもその時初めて知った言葉ではなかったように思う。既に「死」があるのだと私は知っていて、本当にあるんだ、とつばさくんが死んで思った。

 つばさくんは一人でお風呂に入っていて、浴槽なのか風呂桶なのか分からないけれど、泳ぐ練習(息を止める練習だったのかも)をしていたらしい。そうしているうちに溺れて亡くなったと聞いた覚えがある。

 なぜか私の中には映像としてそれが残っている。勿論私はつばさくんではないので、想像の産物だろうけど、自分の家の風呂ではない場所の記憶。小さな頃に私が頭のなかで反芻していた何か。

 周りの人間と比べて、私は近しい人の死というものを比較的経験していない側だと思う。曾祖母、父方・母方の祖父、父方の祖母、幼馴染の祖父母、くらいだろうか。友人と呼べる存在が亡くなったことはまだない。いや、私の知らないところで、会っていないだけで、かつての同級生などが亡くなっていることはもしかしたらあるのかもしれないけれど、「この前まで一緒にいた人」みたいなのが亡くなったというのはない。

 

 風呂場ではないけれど、水辺で死にかけたことがある。

 ほんの小さい頃、それこそ幼稚園ぐらいの時に、家族で潮干狩りで行った。遠目に母親・父親だと思って付いて行った大人が全くの別人で、胸ぐらいまで浸かる沖まで行ったところで母に引き上げられたらしい。というわけで明確に溺れたというわけではないのだが、母の中ではそのことが強烈に印象に残っているらしく「あの時あんたは死んだんだ」と4年前くらいに私が鬱病と反抗期を迎えた際に言われた。

 生まれ方は選べないけど、死に方はある程度自由が効くんじゃないの?と思っていて、というか、死に方ぐらいは選ばせてほしいよなと思っている。私は度々「どうせなら他殺されたい」と公言していて、というのも死ぬ時ぐらいは他人からクソデカ感情をぶつけられてみたいよね、という理由からだ。恨まれて憎まれて、そうして殺しに来てくれるのであれば、自分の中の罪悪感も死とともに解消されて綺麗に人生を終えることが出来てより良いと思う。殺してもらうために積極的に人の憎しみを誘発するような行動を取る気は毛頭無いけれど、それでも生きていれば誰かを傷つけるし憎しみを買うこともあったはずだと思う。そして出来れば不意打ちでお願いしたいと思う。ジリジリと追い詰められて死ぬのは御免というか、多分長く続く緊張感に耐えられなくて先に自死を選んだ方がマシ!となる可能性がある。

 もしくはやっぱり、寝ている間に死ぬというのが一番良い。眠りからシームレスに行きたい。

 

 今世界情勢がこのようになっている中で、死のことを話すのはあれなのかもなとここまで書いて思った。

 ただ、これもどこかでまとめたいなとは思っているのだけれど、今話題になっている当該の戦争を軽視するという意味では全くなく、おそらくどこかで銃声が鳴らなかった日というのは無いのだろう。私たちはきっといつでも、そのことを知っていた。何もしなかった。いつでも、そのように言うことが出来てしまう。戦争がそこになくとも、悲劇というのは大小問わずいくらでも存在するということもまた、私たちは知っていて、その上で、各々日常を送り、笑ったり泣いたりしているのだ。私たちの日常は無意識のうちの欺瞞の上に必ず成り立っている。そうでないと私たちは脳みそが足りないので、それが時々顕在化しては、いつか風化してということを繰り返す。世界はまだ全きの平和ではなく、そして素朴に考えればきっと全きの平和が訪れる可能性の方が低い。私たちは、自分が平穏の中にいる限り、欺瞞と付き添ってやっていく。平穏は常に欺瞞と共にあり、それに耐えられなくなれば渦中に「支援者」の形で飛び込んでその使命を手繰り寄せる、あるいはそれも欺瞞なのかもしれない。もしくは自分自身が「世界的・圧倒的悲劇のもの」になることだ。